オランダ歴史家・ホイジンガ

【人生の最も基本的な要素は「遊び」である】

1)あらゆる人間行動、人間文化すなわち法律・知識・詩・哲学・芸術などはすべて「遊び」によって説明できる。「遊び」は人間行動の本質。

2)「遊び」とは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。

3)「遊び」には必ずルールが存在する。一定の時間・空間の範囲内で、ルールに従って行われるという点で「遊び」は「現実」と峻別される。

4)一方、戦争というような「現実」を例にとって考えてみると、戦争という現実には時間の制約(いつまでに終わる)や空間の制約(ここからそこまでの地面で戦う)がなく、ルール(人を殺してはいけない、使える武器はこれとこれ)もない。
このため、現実の中では人間は常に生存を脅かされるような緊張を強いられる。

5)「遊び」はそのような緊張から解放される手段でもある。それは一定のルールの中での緊張であり、現実生活の緊張とは異なる。さらに「遊び」には「歓び」や「心地よさ」や「面白さ」が伴う。「遊び」は生の最も基本的要素の一つと言える。

6)ドイツ社会学者・経済学者マックスウェーバー(1864~1920)は問題書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、「エトス論(人間の行動様式を内面から支える意識形態・観念形態)」を展開している。
ローマ時代の市民には「労働」のエトスはなく、文化や芸術・哲学等を含む「遊び」のエトスしかなかった。市民が「労働」のエトスを獲得するのはプロテスタンティズム以降のことだ、としている。「遊び」のエトスは長い時間の経過を経ている。

7)車のハンドルのあそびも「遊び」のアナロジー。余裕あるいはキッチリしていないことを表現している。あそびのないハンドルは危険極まりない。

8)情報処理能力の不足している人々は、外界から入ってくる情報を適度にカットして受け容れることができないため、パニックに陥るか、思考停止状態になる。
「遊び」は入ってくる情報を一定の型にはめてコントロールすることによって情報過多による疲労から脱する行為。
(若者達がヘッドホンで音楽に集中するのは、音を聴いたり情報収集したりしているというよりは、本能的に情報遮断して自己防衛している姿に映る。

「おたく」はその典型で、一つのことに集中することで他のことには情報不足でも言い訳が成り立つ。グルメに関して判断能力が低ければ、取りあえず大勢の列に並ぶことによって判断停止の言い訳ができる。「出家」という人生の在り方も情報遮断の姿と考えられる。)

9)小川教授は「遊びの空間」、「日常の空間」、「祭祀の空間」の関係性について今後も研究を続ける。
試みに騒音計で新宿駅、ディズニーランド、明治神宮のデシベルを測定すると、新宿駅>ディズニーランド>明治神宮であり、日常空間は情報過多、遊びの空間はそれより圧倒的に情報がコントロールされており、祭祀の空間は静寂であることが数量的に把握できる。
現代人は過多な情報にさらされており、それを遮断するために遊びの空間や祭祀の空間を求める、という仮説が成り立つ。

10)勝負事の決着の付け方。

1、ゴールを決めて競走し、早く着いた順に勝ちとする。
2、採点者がいて、彼が順位を決める。
3、ランナー自身が勝手に勝ちを決める。
4、じゃんけん・サイコロ・くじ引き等、運で勝ちを決める。
以上の4通りがあるが、1~3は必ず強者が勝利する。

弱者に出番があるのは「4」だけ。
運で弱者に勝利のチャンスを与えるのは人間社会の空気穴。

カジノは人間行動の本質としての「遊び」の提供の場

上記、「遊び」は生の最も基本的要素の一つという考察を踏まえて。

1)賭け事、ギャンブル、ばくち、闘技、競走、ゲーム等などは、人間行動の本質としての「遊び」の表出であり、人類の歴史とともに存在してきたもの。
富くじ・宝くじも同様。

2)カジノは、その場を近代的・組織的に提供するもの。

3)歴史的にみて、博打場・賭場も同様の役割を果たしてきており、例えば江戸幕府は時の政権によって管理を強化したり緩めたりしているが、賭け事そのものを禁じたりはしていない。

4)賭け事、ばくちなどのギャンブルに対する古今東西の国家や都市の政策の在り方を吟味し、整理しておくことが、やみくもなギャンブル否定論、依存症批判、カジノ否定論への反論に根拠を与える。

5)骨太なカジノ論は、「1」文化的側面、「2」産業的側面、「3」都市計画・街づくり的側面、「4」社会政策的側面、「5」高齢社会・介護政策側面など様々な側面から検討を加えて行く必要がある。

6)社会評論家故・室伏哲郎(『CASINO JAPAN』創刊者)は、「カジノ産業が日本を救う」という言葉を残した。